絵本作家さんや絵本の専門家の方々に、絵本についての思いやこだわりを語っていただく「ミーテカフェインタビュー」。今回ご登場いただくのは、強烈なインパクトを放つ絵と博多弁バージョンの文で人気の『給食番長』の作者・よしながこうたくさんです。よしながワールドの原点となる子ども時代についてのあれこれや、『給食番長』制作エピソード、絵本に込めた思いなど、笑いを交えながら楽しくお話しいただきました。
今回は【前編】をお届けします。(【後編】はこちら→)
1979年、福岡県生まれ。九州産業大学デザイン科卒業。18歳から作家活動を始め、その後イラストレーターとして雑誌、テレビ、CDジャケット、雑貨等で国内外問わず活動。2007年に『給食番長』(長崎出版)で絵本作家デビュー。シリーズ続刊に『飼育係長』『あいさつ団長』(同じく長崎出版)。そのほかの絵本作品に『かみなり』(文・内田麟太郎、ポプラ社)、『おふろだいすき!ぷっぺ』(小学館)がある。福岡を拠点に活動中。 http://www.edomacho.com/koutaku/
僕は北九州の下町で育ちました。ボロボロの一軒家に住んでたんですよ。小さい頃は、寺の子だったばあちゃんに礼儀とかを厳しくしつけられました。毎朝うす暗い畳の部屋に正座させられて、お経を読まされてたんです。父もすごく厳格だったので、物を粗末にするなとか、生き物を殺しちゃいけないとか、教え込まれました。
絵は3歳のときから描いてましたね。家の近所には海、川、山、全部そろってたんで、そこで魚や虫や植物を採ってきては描写してました。今も昔の同級生に会うと、「いつもかばんに落書き帳が入ってて、ずっと落書きしよったよね」と言われるんですよ。小学生の頃よくやってたのは漫画の模写なんですけど、うまく描けるとみんなが喜んでくれて。僕にとって絵は、ひとつのコミュニケーションツールだったんですね。
子どもの頃に読んだ本でよく覚えているのは、ばあちゃんの部屋にあった、天国と地獄について描かれた絵本です。地獄の絵は本当に怖くて、悪いことしようとしても、地獄に落ちたらやばいし…って思うようになりました。
10歳くらいから、父に連れられて何度か南米に行きました。父は、ボランティアで南米に小学校を建てたり植林活動をしたりと、海外でも活動していたんです。そこで見たのは、やっと電気と水道が通ったような土地で、トタンのバラック小屋みたいなのが見渡す限り広がっている貧民街。3歳くらいの子も野良仕事とかしてるんで、握手すると手がごつごつなんですよ。日本とはまったく違う現実をたくさん見せてもらって……自分がいかに恵まれてるのかって、肌身で感じたんです。僕の死生観はその頃つくられましたね。
中学生の頃には、絵の世界で食っていこうって決めてました。高校では自分の絵を先生に受け入れてもらえなくて、あまり描かなくなってしまった時期もあったんですけど、大学に入ってから、天神のギャラリーで個展をやらせてもらう機会に恵まれて。大きい絵とか描いたことなかったんですけど、それを機に真剣に自分の絵を考えるようになりました。
大学卒業後に上京して、イラストレーターとして仕事を始めました。その間に、知り合いのつてで長崎出版さんとめぐりあったんです。長崎出版さんはちょうどそのとき、おもしろい若手作家はいないかと探してたみたいで。それで、それまでに手がけたいろんな作品を見せていたら、「給食セット」というアルマイト食器のグッズのパッケージイラストが目に留まったようで、じゃあ小学校を舞台にした絵本にしよう!ってことになって。そうして生まれたのが『給食番長』です。
▲cub label わんぱく小学校シリーズ『給食番長』、『飼育係長』、『あいさつ団長』(いずれも長崎出版)。秋にはシリーズ4作目が登場する予定。
実際にある小学校みたいに、リアルに描きたいと思っていたので、描き始める前に近所の小学校に取材に行きました。ただ、絵本作家といっても「今から絵本を描くんです」みたいなときでしょう。当時はもうちょっと派手な髪型だったし……一応電話してから行ったんですけど、最初は不審人物みたいに扱われましたね(笑) でもちゃんと取材させてもらったおかげで、給食室とかも緻密に描くことができました。
『おふろだいすき! ぷっぺ』では、天神にある銭湯を取材させてもらったんですよ。街のど真ん中で50年やってるっていう、お風呂がひとつだけのちっちゃな銭湯なんですけどね。じいちゃんたちがお風呂あがりにビール飲みながら輪投げ大会をやったり、クラブ帰りの小学生と番頭のおじちゃんがあいさつ交わしてたり、なんか、いいコミュニケーションの場になってるんです。あぁ、昔の日本はこんな感じやったんかなぁって思いましたね。
デビュー作となる絵本の話が決まって、絵を描いてる最中に、家の都合で福岡に帰ることになっちゃって。出版を取りやめられたらかなわん!と思って、引っ越しギリギリまで内緒にしてたんです。下書きを全部渡してから、「すいません、福岡に帰ります!」て言って、バタバタと帰っていきました(笑)
それで、福岡に戻って制作を続けるのなら、ローカル発信の作品ならではのものにしたいよねっていう編集長の意見で、博多弁を入れようってことになって。もともと『給食番長』は、「ごはんを残さず食べようよ」というところからちょっとずれて、「つくってくれている人がいるんだから、感謝して食べよう」というのがテーマなんですね。自分以外の他者の気持ちを知るというのは、視野を広げるってことだから、そういう意味では博多弁もいいかなと思ったんです。
子どもの頃って、ほんと視野が狭いじゃないですか。福岡でいうと、自分たちが方言をしゃべってるって意識は当然ないんですよね。自分たちのしゃべる言葉とテレビの言葉、世界にはこの二つの言葉しかないって思ってましたから。だから、福岡以外に住んでいる子どもが小さいうちにこういう言葉に出会ったら、こんなしゃべり方するやつがいるんだって、ちょっと視野を広げるきっかけにもなるかなって。
博多弁と一言で言っても、地域や世代によっていろいろ違いがあるので、結構苦労しました。ヤンキーは方言を使うのがうまいので、元ヤンキーの兄貴に訳してもらったんですけど、それだけだと給食のおばちゃんまでヤンキー言葉になっちゃってまずいなと(笑) それで小学校に持っていって、「子どもだったらここのところ、どう言いますかね」って学校の先生にも相談して、いろいろアドバイスをもらいました。福岡から散っていって、今はそれぞれどこか違うところで子育てをしているお父さんお母さんたちからも、「博多弁をしゃべれるときがきた!」って喜びのメールをもらうんですよ。
……よしながこうたくさんのインタビューは後編へとまだまだ続きます。(【後編】はこちら→)