絵本作家さんや絵本の専門家の方々に、絵本についての思いやこだわりを語っていただく「ミーテカフェインタビュー」。今回は、漫画家で絵本作家の多田ヒロシさんにご登場いただきます。『おんなじおんなじ』や『ねずみさんのながいパン』など、一度は手にしたことがあるのでは? 漫画家らしいユーモアあふれる作風と軽妙なことば遊びが人気の多田さん。ロングセラーの制作秘話から、御子息で絵本作家のタダサトシさんとのエピソードまで、たっぷりと伺ってきました。(【後編】はこちら→)
1937年、東京生まれ。武蔵野美術大学デザイン科卒業。絵本作家、漫画家。絵本作品に、ロングセラーの『おんなじおんなじ』など「ぶうとぴょんのえほんシリーズ」や、『ねずみさんのながいパン』『わにがわになる』『わんわんなくのはだあれ』(以上こぐま社)のほか、『りんごがドスーン』(文研出版)、『だれかしら』(文化出版局)など多数。日本漫画家協会、漫画集団、漫画家の絵本の会所属。
幼稚園の頃から、やっぱり絵が好きでしたね。キンダーブックなんかはもちろんありましたからね。武井武雄だとか、誰が描いていたというところまで覚えています。自分も描こうかという気が、その頃からあったかもしれないですね。幼稚園の時に、先生向けの略画辞典という本をお小遣いで買いました。戦争中も、疎開した時も持っていきましたね。その頃描いたのは、戦車とか飛行機とか。時代ですね。
一貫して絵は描いていました。絵描きになろうと意識した瞬間というのはないですね。みんなそうだと思うんだけど、いつの間にかそうなっちゃった。要するに、好きだっただけでそれをやめられなかった(笑)
もともと漫画家志望だったから、大学に入った頃から投稿欄にはしょっちゅう出していました。今では有名なトキワ荘の連中なんかと同時代なんですけどね。赤塚(不二夫)とか石ノ森(章太郎)とか。あの人たちみんなが投稿してたところに、僕も投稿していました。
漫画週刊誌が出始めた頃に「週刊漫画TIMES」という雑誌が創刊されたんですが、そこに表紙の絵を売り込みに行ったんですよ。まだ19歳でした。そうしたら、いっぺんで採用するというんで(笑) 当時の会社員の初任給くらいの原稿料をもらって。おかげさまで、結婚前に(奥さんと)デートができた(笑)
雑誌の中にも普通の漫画を描き始めたんだけれど、「君は表紙だけ描いていればいいんだ」なんて言われちゃって。新人だったからね。表紙は色を使いますから、やがて色が使える漫画を描きたいと思った。ただ漫画じゃなかなかそうはいかない。けれど絵本ならば色が使える。ちょうど福音館で、漫画家の長新太さんが描き始めたんですよね。「いいなぁ」と思って。こういう世界に入れば自分も描けると思ったわけですよ。
最初の創作絵本は『くじらのラッキーくん』(あかね書房)。寺村輝夫さんがあかね書房の編集長をやっていらした頃ですね。また小峰書店から、寺村さんの文章で『ミカちゃんのぼうけん』という幼年童話の挿し絵を描いたんだよね。この本が入ったシリーズが産経児童出版文化賞で推薦に入ってね。それからボチボチ挿し絵を頼まれて、あちこちから本が出るようになって、少し忙しくなった。
この頃、絵本作家の太田大八さんに、こぐま社を紹介してもらったんですよ。ちょうどこぐま社は創成期で、テレビの子ども番組「ロンパールーム」とタイアップした本をつくっていたんです。太田さんから話を聞いたこぐま社創業者の佐藤英和さんが、新婚当時の家に来たのを覚えていますよ。ショートケーキを2個持ってね。自分が食べる分はないの(笑)
それが始まりで、青山にあった事務所へ通って。それからこぐま社が創作絵本を始めるというので、『おんなじおんなじ』を描いたんですけれどね。やっぱり創作絵本が一番やりたかったから。それが45年前ですよね。
太田さんはね、もともと長新太さんと飲み友だちだったのね。で、僕が長さんと一緒に飲み歩いていたら、そこに太田さんもいたという感じですね。それから3人で飲むようになった。みんな10歳ずつくらい違うんですよ。長さんは僕の10歳上、太田さんは長さんの10歳上。それなのに、あっちこっち旅行行ったり、はしご酒したりしてね。絵の話は何にも出ません。遊び友だちです。一番楽しい時でしたかね。
夜新宿で飲んでいて、「明日伊豆に行こうか」「じゃあ8時半頃迎えに行くよ」なんてね。翌朝家に帰って、寝たか寝ないかのうちに、窓の下にもう太田さんが車で来ているんだから。走り出してから「どこ行く?」って。「じゃあ、海があって、釣りができて、バーが7軒くらいあるところ」ってね(笑) 仕事はね、たまに持っていったこともあったかな。長さんはね、旅館でイカばっかり描いていたら、女中さんに「フトンの柄を描く先生ですか?」って言われちゃってたな(笑) まぁ、ほとんど遊んでいましたね。
『おんなじおんなじ』は、出るまでに2年くらいかかったんですよ。最初は『ふたりの王さま』(のちに、こぐま社から出版)をつくっていたんです。でも結末がうまくいかなかったというか、佐藤さんが納得いってなかった。「ちっちゃい子向けの本を出したい」と言われて、年齢層を低くしてやったんですよね。それで生まれたのが『おんなじおんなじ』。ちっちゃい子は「おんなじだね、うれしいね」という時代があるでしょう。『ふたりの王さま』は、真似されることが嫌。どっちも土台は「同じ」なんだけれど、方向は反対になっちゃった。
この話は、言ってみれば4コマ漫画の延長なんですよ。起承転結。転で逆さまになって、結はコマとボールが違ったということ。「同じ」というコンセプトで展開していくわけですが、当時はお話の形がほとんどでしたから「こういう絵本もアリなんだ」と驚かれたことがあります。今見るとあって当たり前の本でしょうけれど、当時はね。日本の絵本界みたいなものが何にもない時代のことだから、「こうやっちゃいけない」ということは考えていないですもんね。
この頃は、東京・銀座にある「イエナ洋書店」というところで、外国の絵本を買って集めていましたね。見ているとすごい単純化されている。要するに英語が読めなくても、絵を見ただけでも分かる。こういうのは面白いと思って、参考にしていましたね。
『りんごがドスーン』は、もともと月刊の「ジョイフルえほん」の一冊なんです。太田さんの『傘』も一連ですよ。これが韓国版になって、日本よりも売れているらしいんです。韓国人はリンゴが好きなんだって聞いたことがありますけれどね。
ある時飛行機に乗ったら、子どものための絵本として『りんごがドスーン』が置いてあったの。一緒にいた長さんが見つけて「これ、大丈夫かな? 飛行機なのに『ドスーン』って、危ないなぁ」って、そう言うんだもの(笑)
これはありえないほど大きなリンゴが出てくるけれど、「食べる」という人間の基本が話になっているんです。絵本はね、不自然なのはダメだと思うんですよね。動物が主人公だとしても、人間が普通にやっている生活から離れちゃったらいけないと思っている。そこに面白さを加えるということが始まりですよね。ありえないけど、嘘っぽくないというかね。
▲子ブタのぶうと子ウサギのぴょん。靴も帽子もおもちゃも、みんな同じ。同じはうれしい、でも違うのも楽しいね。『おんなじおんなじ』(こぐま社)
▲隣に並んだお城に住む、ふとっちょの王様とほそっちょの王様。なぜか二人はやることなすことが同じ。なんとか違うことをしようとしますが……『ふたりの王さま』(こぐま社)
▲大きな大きなリンゴが、ドスーンと落ちてきた。もぐらが見つけて「もぐもぐもぐ、おーうまい」。蝶もリスもきつねも、おなかいっぱい!『りんごがドスーン』(文研出版)
……多田ヒロシさんのインタビューは後編へとまだまだ続きます。(【後編】はこちら→)