絵本作家さんや絵本の専門家の方々に、絵本についての思いやこだわりを語っていただく「ミーテカフェ インタビュー」。今回は、赤ちゃん絵本の先駆的存在『いないいないばあ』の作者・松谷みよ子さんにご登場いただきます。絵本や童話の世界で数多くの作品を生み出してきた松谷さん。ミリオンセラー誕生にまつわるエピソードや、本が大好きだった少女時代、働きながらの子育て、子守唄やわらべ唄の魅力など、やさしくにこやかな笑顔で語っていただきました。
今回は【前編】をお届けします。 (【後編】はこちら→)
1926年、東京生まれ。作家。坪田譲治に師事し、1951年『貝になった子供』で第一回児童文学者協会新人賞を受賞。代表作に『龍の子太郎』(国際アンデルセン賞優良賞、講談社)、『ちいさいモモちゃん』(野間児童文芸賞)をはじめとする「モモちゃんとアカネちゃん」シリーズ(講談社)、「松谷みよ子あかちゃんの本」シリーズ(童心社)、『現代民話考』(立風書房)など。近刊に『自伝じょうちゃん』(朝日新聞社)、『ミサコの被爆ピアノ』(講談社)がある。松谷みよ子民話研究室を主宰。http://matsutani-miyoko.net/
※松谷みよ子さんは2015年2月28日にご逝去されました。故人のご功績を偲び、心からご冥福をお祈りいたします。
小さい頃、家の本棚には、アルスの児童文庫や興文社の小学生全集など、200冊くらいの本がありました。母からは、「うちのことせんでいいから本を読みなさい」って言われてたんですよ。「嫁に行けば何でもできるから」って。すごいでしょう、明治生まれの親としては(笑) おかげで小さい頃から本は身近なところにあって、親しんできましたね。
子ども向けの本を読み終えると、今度は大人の世界文学全集に手を出しちゃって。兄は、小さいうちから恋愛小説なんかを読ませたくないって思ってか、怒りましてね。「いいのよ、その年その年で読み取れるものがあるんだから」という姉と、けんかになっちゃったりして。それでも読みたい読みたいと言って随分読み進めましたが、そのうちに戦争になってしまって、世界文学全集は全部読み終えないうちに、みんな焼けちゃいました。
小さい頃はあまり昔話を聞かずに育ったんですけど、唯一よく聞いたのが、お手伝いのおねえちゃんがお風呂でよく話してくれた「しっぺい太郎」のお話。お祭りの日に山の神様が人身御供を要求するお話で、白羽の矢を立てられた家の娘は、白木の箱に入れられて山に連れて行かれてしまうんです。そのお話になぞらえて、庭のさるすべりの木に登って、白羽の矢が立つのを待って遊んだりしました。お城のような門のある家の子と遊ぶときは、西洋のお姫さまのお話とか、ヘンゼルとグレーテルごっことかをやりましたし、熊の冬眠ごっこなんかもしましたね。絵本の世界が実際の遊びにもつながっていたんですよ。
子ども時代に近所の教会で見た「靴屋のマルチン」の人形劇や、東京で働き始めてから見た銀行組合の人形劇サークルの舞台に刺激を受けて、会社でサークルを作って人形劇を始めたんです。私が台本を書いて、人形も作って、上演して、それが終わるとダンスパーティーがあって……という世界。そのときに、のちに夫となる瀬川拓男をはじめとした人形座の人たちと知り合いました。
夫は、普通の夫婦という単位じゃつまらない、集団生活がしたいっていう人だったんです。それで、新しい生活のために、たった3部屋の家を確保したんですけれど、そのあと私が結核の再発で倒れて、療養所に入って……その間、家には瀬川とその友達の男たちが住んでたんですよ。私が療養所から出て家に帰ると、相撲ばっかりとるもんだから、畳に穴が空いてて(笑) 結婚してからは、近所のお母さんとサークルを作って、子どもたちが絵を習いに来たりしてました。その頃、人形劇でNHKの仕事をしてたものですから、うちに来る子たちがテレビにも出たりして……なんだかわっさわっさと、休む間もない慌しい毎日でしたよ。
赤ん坊は、1歳のときから近所の保育園の赤ちゃん部屋に預けていました。その頃は、赤ちゃん部屋に預ける人なんてあまりいなかったので、鬼のような親だみたいに言う人もいたんですけどね。テレビ局の仕事なんかしてると夜だって遅かったりするわけでしょう。だから赤ちゃん部屋のあとは、近所のおばあちゃんが保育園に迎えに行ってくれて、うちの娘の面倒を見てくれました。
そのおばあちゃんをはじめ、思えば随分いろんな人に助けられましたね。結婚するときには、友達がドレスを縫ってくれましたし。私は結核で手術もしてるから丈夫じゃないでしょう。そうすると友達がね、「今は“なんとか貸し屋”っていうのが流行ってるけど、“子貸し屋”やりませんか」なんて言って、赤ん坊を預かってくれたりね。
そうかと思えばあるときは、近所の若い子がうちの戸を開けて、いきなり赤ん坊つきつけて、訳も言わずに「お願いします!」って置いてっちゃったりして。あとで帰ってきて「お父さんが倒れたから」って言うんです。ここにくれば赤ん坊の面倒見てもらえると思ったんですって。
新婚時代は、友達がくれば「いらっしゃい」より先に「ごはん食べた?」と声をかけていましたね。近所のお母さんたちは、子どもたちが遊んでると、ご飯をいっぱい炊いておにぎりをつくって「さあ食いな!」なんて出してくれて。ある意味いっぱい家族がいるようなもので、子どもたちはみんなに育ててもらいましたね。みんなが連帯で助け合って暮らしていたんですよ。
▲世代を超えて愛される赤ちゃん絵本『いないいないばあ』(童心社)
『いないいないばあ』が出版されたのは、もう40年以上前のことなんですけど、その頃はまだそれほど絵本が出ていなかったんです。それで、童心社の編集長の稲庭桂子さんと、「赤ちゃんの絵本を作ろう」って話になりました。ちょうど二人目の子どもがおなかの中にいたときのことです。
最初は、いろいろな場面のあと「いないいないばあ」って終わる感じ考えていたんですよ。でも考えているうちに、「『いないいないばあ』だけで絵本になるんじゃないか」って思ってね。それで、あの文章ができたわけなんです。
絵を描いてくれたのは、瀬川康男さん。「赤ちゃんの絵本をこれから作るんだ」って話したら、康男さんが「俺に描かせろ」って言ったんです。「え、康男さんがー?」って私が不信そうに声をあげたら、「俺は何だって描けるぞ。モモちゃんだって描けるんだから」っておっしゃってね(笑) あれは本当にいい絵でしょう。赤ちゃんのための、赤ちゃんの絵本の絵を描いてくれたんです。
そのうちにおなかの子が生まれて、まだお座りができるかできないかっていう頃に校正刷りがあがってきたので、見せたんです。そしたら「もっか、もっか」って。「もっか」っていうのは、つまり「もう1回」ってことなんですね。それで、この子が認知したんだから、これなら大丈夫だなと思いました。
私の先生は坪田譲治という『風の中の子供』を書かれた作家ですけれども、完成した絵本を先生のところに持って行ったとき、「これは日本中の赤ちゃんの手元に届きますよ」って言祝(ことほ)いでくださったことを今でも覚えています。おかげさまで、随分たくさんの子どもたちのところに届いたと思います。
……松谷みよ子さんのインタビューは後編へとまだまだ続きます。(【後編】はこちら→)