絵本作家インタビュー

vol.117 絵本作家 太田大八さん(前編)

絵本作家さんや絵本の専門家の方々に、絵本についての思いやこだわりを語っていただく「ミーテカフェインタビュー」。今回は、『だいちゃんとうみ』や『かさ』などでおなじみの絵本作家・太田大八さんにご登場いただきます。現在94歳の太田さんの作品は、絵本だけで130作以上! 作品のテーマにより様々な絵画技法をふるう高い表現力は、国内外で高い評価を受けています。絵本界の第一人者に伺った、人気作の制作エピソードや子どもと絵本への思いとは!?
今回は【前編】をお届けします。(【後編】はこちら→

絵本作家・太田大八さん

太田 大八(おおた だいはち)

1918年、長崎県生まれ。多摩美術学校卒業。絵本作家。『いたずらうさぎ』(福音館書店)ほかで小学館絵画賞、『かさ』(文研出版)で第18回児童福祉文化賞、『やまなしもぎ』(福音館書店)で1977年国際アンデルセン賞優良作品、『ながさきくんち』(童心社)で第12回講談社出版文化賞、『だいちゃんとうみ』(福音館書店)で第15回絵本にっぽん賞、『絵本西遊記』(童心社)で第45回産経児童出版文化賞など数々の賞を受賞。1949年のデビュー以来、130作以上の絵本と230冊以上の児童書などの挿絵を手がけている。

子どもの頃の思い出を描いた『だいちゃんとうみ』

だいちゃんとうみ

▲第15回絵本にっぽん賞を受賞した『だいちゃんとうみ』(福音館書店)

※太田大八さんは2016年8月2日にご逝去されました。故人のご功績を偲び、心からご冥福をお祈りいたします。

たくさんの本を作ってきた中でも、印象に残っているのは『だいちゃんとうみ』かな。僕は子どもの頃、長崎県大村町で育ちましてね。その思い出を描いたものが『だいちゃんとうみ』です。

絵本の最後に地図が載っているんだけれど、この大村湾の川棚というところに実家があったんですよ。絵本に出てくるいとこのこうちゃんが住んでいたの。夏休みになると、大村の家から何日か泊まりに行って、夜明けから日暮れまで目一杯遊んだものです。

この話の時はね、こうちゃんと一緒に、「テボ」っていう魚用のカゴに野菜や漬物を入れて、坂を駆け降りていったんですよ。朝早くにね。途中に2、3軒農家があって、牛なんかを飼っている家があって、その先に鳥居がある。それを目印にして海に出るんだ。まだ暗い時間だけれど、もう「うたせ舟」が魚をとって帰ってくる。船頭さんは僕たちを知っていて、とれた魚と野菜や漬物を物々交換してもらう。

僕が大村から東京に引っ越したのは10歳の頃。この絵本の取材のために、改めて大村に行ったんです。舟の細かいことなどは忘れていましたからね。昔の舟はまだありました。ただ、やっぱり海はね。昔と違っていろいろ汚れていました。それは感じましたね。だから絵本に描いた海は、僕の記憶の中にある海。僕の知っている大村の海は、すごく綺麗だった。

釣りをしたり泳いだりする以外にも、絵は子どもの頃から好きでね。「この子は紙と鉛筆を持たせておけばおとなしい」って。「加藤清正の虎退治」はよく頼まれて描きました。あとは4コマ漫画の『正チャンの冒険』。得意でよく小学校の黒板に描いたもんです。「正チャン」の樺島勝一さんは、漫画とは違う写実的な絵を『少年倶楽部』に描かれていて、僕はとても感心してよく見ましたよ。

偶然の出会いから絵本作家に

いたずらうさぎ

▲第7回小学館絵画賞『いたずらうさぎ』(福音館書店)。復刻版として『こどものとも復刻版Aセット』に所収(分売不可)

絵本を描くことになったのは、偶然の再会がきっかけなんですよ。

長崎の大村から引っ越した先は、東京・神田小川町の4つ角でした。戦争が終わって結婚して、当時はもう住んでいませんでしたが、その神田小川町で偶然の再会があったんです。

うちがあったところからまっすぐ坂を上っていくと御茶ノ水駅、そしてニコライ堂があってね。その坂の途中にあった羽田書店の編集長をしていたのが僕の中学の同級生。その彼と偶然出会って「おお、太田君。君は絵が得意だったけれど、本の挿し絵を描かないか」というわけですよ。まったくの偶然だったんです。それが『うさぎときつねのちえくらべ』というデビュー作になります。この作品では写実的な絵を描いています。

この絵を見た方が、理科の教科書の挿し絵を描く仕事を紹介してくれたんです。それが、でかい仕事でね。僕は友だちと一緒に行ったんだけど、「ものほしそうな顔をするな、いやなら断るという顔をして堂々と行け」と言いました(笑)

さて、仕事は受けられたものの、仕事量は膨大で、時間はほとんどなかった。多摩美術学校時代の友だちなどを20人くらい手伝いで頼んで、昼夜を問わず描いて描いて、なんとか仕上げた。そしたら、たくさんのお金がもらえてね。それで、今住んでいるこの土地を買って、家を建てられたというわけです。

子どもが自分で何かを発見する絵本『かさ』

かさ

▲第18回児童福祉文化賞ほかを受賞した『かさ』(文研出版)

絵本作家となってしばらくは絵のみを描いていましたが、70年代に入って作絵の両方を手がける作品を出すようになりました。『かさ』はそんな初期の作品です。

大人用の黒い傘の中を女の子の赤い傘が動いていく、というイメージ。それが最初にありました。レオ・レオニの『あおくんときいろちゃん』ってあるでしょう。ほとんど色が使われていない、ああいう本を作りたかった。それで色数を抑えたんです。

絵だけで文字のない作品です。子どもが自分で絵本を見て、何かを発見する、自分で物語を作る。そういう意図があったんですよ。絵本を作る側は言葉をしゃべらず、子どもの言葉を待つということです。

この赤い傘の女の子のモデルは娘です。実際に雨の中、傘を持って駅まで迎えに来てくれた思い出があったんですよ。娘は結婚して孫とともにアメリカに住んでいます。

以前、アメリカでイラストレーターとして働く孫娘と、ヨーロッパへスケッチ旅行をしました。僕は日本語で、向こうは英語しかしゃべらない。旅行中も、あまりしゃべりませんでした。なんて言うかな、なんとなく一緒にいるんですよ。でもなぜか懐いてくれていてね。

ある時、ホテルに泊まっていたら、向こうが急にいなくなっちゃったことがあったんです。心配しましたよ。しばらくして帰ってきたんで、ポリスステーションに電話しようかと思ったと伝えたら、「一杯飲みに行ってきた」って(笑)

ホテルの下のバーで飲んでいたらしいんです。もっと怒ろうかと思ったけれど、ふと、オレでもそうするなって。似ているのかなぁ? ただ、あんまり一緒に飲んで回ったりはしなかったですね。なんででしょうね。


……太田大八さんのインタビューは後編へとまだまだ続きます。(【後編】はこちら→


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